こんにちは。
今日も『XM長者の稼ぎ方│XP兄貴』の記事を読みに来て頂きありがとうございます(*^^*)
豊臣秀頼と言う人物を知っていますか?
日本史上最高のチートだと思われる豊臣秀吉を父親に持ち、大阪夏の陣で徳川家康に滅ぼされてしまった最後の豊臣家当主が豊臣秀頼になります。
大坂夏の陣の後、こんなわらべ歌が京都で歌われていたそうです。
「花の様なる秀頼様を、鬼のやう成る真田がつれて、退きものいたよ加護島へ」

加護島とは、当時の薩摩。現在の鹿児島県になります。
本当にお墓があるのか、行って確かめてきました。
そして、大河ドラマ真田丸が大好きな管理人が豊臣秀頼についても一緒に記事にしようと思います。
伝・豊臣秀頼の墓は鹿児島市谷山にあり(谷山市史)
谷山市史に記載
豊臣秀頼の薩摩落ちについて一部を抜粋します。
谷山市下福元町木之下部落に
豊臣秀頼の墓と称するものがある。多宝塔で、
塔身は円筒形、高さおよそ二メートル
円筒の直径六十二センチメートルである。
豊臣秀頼は、あの大坂夏の陣で蔵に篭り、自決されたという正史がありますが生き延びたという話があるようです。
そして、谷山にお墓もあるとのことです。

他の情報を集めてみましたが豊臣秀頼伝説は色々なところにありました♪
イギリス商館長・リチャードコックスの日記に記載
「秀頼様の遺骸は遂に発見されず、従って彼は密かに脱走せしなりと信ずるもの少なからず」
「秀頼様は薩摩あるいは琉球に逃れたとの報あり」と日記に記しております。
※リチャードコックスとは
江戸幕府の大御所・徳川家康の外交顧問であったイングランド人のウィリアム・アダムス(三浦按針)の仲介によって家康に謁見して貿易の許可を得て、平戸に商館を建てて初代の商館長に就任した人物。
「イギリス商館長日記」は、イギリスの東アジア貿易の実態や日本国内の様々な史実を伝える一級の史料になります。
甲子夜話(かつしやわ)続篇に記載
肥前松浦藩主の松浦静山による「甲子夜話続篇」に収録されている信州松代藩主・真田幸貫との会話があります。
幸貫は静山に「家(真田家)の幸村は薩摩にゆきたるとおぼし」と言い、幸村が秀頼と薩摩へ行き、幸村が頴娃に住んで「えいの山伏」と呼ばれたという書状を見せてくれたと書かれています。
他に、「大坂も落城し、徳川の天下も定まったゆえ、秀頼が生きているの分かっていたが、今更殺す価値もないだろうから放っておいた」とも書かれております。
採要録に記載
大坂の陣が終わって間もなく、ある浪士が谷山に住み始めたそうです。
彼は大柄で酒好きで、酔ってあちこちで寝ていたり乱暴な振る舞いをしたりして「谷山の酔喰」と呼ばれていたそうです。
しかし、藩主からは手出し禁止と申しつけられていたので、人々は放っておくしかなかったのだそうです。
藩主から手出し禁止と言われているやんごとなき御方から、豊臣秀頼殿では?という推測がたったのかもしれません。
昔は噂が広まるのも早そうですし。
胆大小心録に記載
大坂の陣が始まる前に、豊臣秀頼は、“島津の退け口”で勇名を馳せた島津義弘に丁重に出陣を要請したが、断わられております。
過去のいきさつもあって、島津義弘は、秀頼を救出することにしました。
島津の軍勢は西軍のために兵糧米500石を大坂城中に運び込み、その帰りに真田幸村・大助親子、豊臣秀頼、木村重成らを密かに救い出したと書かれている。
伝・豊臣秀頼の墓へのアクセスは?
鹿児島中央駅からJR指宿枕崎線に乗り谷山へ向かいます。
鹿児島中央からだと4駅と近く、12分になります。

しかし、戦国時代に色々な著書に出てくる「谷山」という地名が現在も使われてるところに歴史が繋がっているというのを感じます。
谷山駅に着きましたら、改札を出て左側にタクシー乗り場があります。
生憎、大雨でしたのでタクシーを捕まえることは出来ませんでした。
タクシーがないと、初めての場所ということもあって道に迷う可能性もあります。駅員さんにタクシー会社の電話番号を教えてもらいました。
谷山タクシー:0120-23-4919
ひまわりタクシー:0120-87-3930
平川タクシー:099-261-2211
困ったのが、タクシーの運転手さんに何て言おうでした。
実際聞いてみましたが、「豊臣秀頼の墓はわからない」と言う回答が返ってきました。

なので、場所をナビで登録してもらって下さい♪
豊臣秀頼の墓がある住所
「鹿児島市谷山中央4丁目」

そして、以下の画像を見せるとわかってくれるかもしれません♪

「伝・豊臣秀頼の墓の看板わかりますか?」
こう聞いてみて下さい。
「あーそういえばあったな~」
という回答が私の場合返ってきました。
住宅街にあるので、タクシーで何回も通る道のようです。

看板通りにタクシーを走らせると更に看板がありました。
ちなみに・・・
タクシーの運転手さんからこう言われました。

あの看板の下にあるのがお墓だよ。

mjky
看板にはあと50mって書いてあるのに、ここにあるのか。
田んぼの神様の銅像でした\(^o^)/

ここから少し迷いました。
50m先なのですが、見つかりません。
それもそのはず、民家の庭の中にお墓があるのです。

私はタクシーを止めておいてもらい、豊臣秀頼様のお墓の供養をしたいと家主にお願いをしました。
結果、快く許可をして頂けました。
必ず無断で入らないようにして下さい。
伝・豊臣秀頼の墓
大阪城が落城した時、豊臣秀頼は島津氏を頼って薩摩に落ちのびたといわれます。「秀頼の薩摩落ち」の伝説です。高さ3メートルのこの塔は、その火でよりの墓と伝えられていますが、下からは何もでなかったそうです。初代谷山氏の供養塔という説もあります。

それでは、お墓を見させてもらいましょう。

まず、通路側から最初に見える秀頼の墓になります。
近づいてみます。
「伝秀頼公由緒地」墓石
この地には、「真田丸」で豊臣秀頼を演じた中川大志さんも訪れているようです。
宝塔と石造物
豊臣秀頼供養塔で供養をさせて頂きました。
快諾して下さった家主様には心より感謝します。

豊臣秀頼の供養を終えたところで、少し秀頼様について記事を書こうと思います♪
豊臣秀頼という人物はどんな人?
豊臣秀頼・・・
世間では淀殿の言いなりで、大坂の陣を敗北に導いてしまい、豊臣家を滅亡させてしまった、そういうイメージでしょうか?
400年たった今でも生存説が根強く残っている豊臣秀頼とは、どういう人物だったのでしょうか?
豊臣秀頼は天下を取った秀吉の子供として生まれ、そこから悲劇は始まった
豊臣秀頼の生まれについて
生誕:文禄2年8月3日(1593年)
父親:豊臣秀吉
母親:淀殿(茶々)
幼名:拾丸(ひろいまる)
元服後:藤吉郎秀頼

さて、豊臣秀頼の父親は誰なんでしょうか?
豊臣秀吉が認知したから父親は秀吉です。
ただ、本当の秀頼の父親が誰なのかは、いまだに謎めいています。
大河ドラマでも正室のねね(北政所)が子供を産めなかったのを嘆いてるシーンが数多く描かれております。
しかし、女遊び(百姓の出の秀吉は高貴な存在を特に好んだ)が大好きな秀吉は正室以外に側室を16人もはべらしておりました。
摩阿姫(前田利家の娘)、大坂城の京極竜子、甲斐姫、織田信長の娘なども側室に迎えており、記録に残ってない女性も入れれば数多くの女性と関係を持ってきました。(権力がある人物は関係を持つことでお金などを渡して援助をしていたので女性合意だった可能性ももちろんあります)
しかし、秀吉には子供が出来なかった事実があります。(織田信長から長浜城の城主に任命されてた時代に子供がいたなんて説もありますが)
そんな折、淀殿だけが秀吉の子供を生みました。
しかも2人です。
現代の人がおかしいと思うように、当時の人もおかしいと思ったのでしょう、噂が流れ、秀吉は烈火の如く怒り狂い虐殺を始めます。

秀頼は秀吉の子供だった、めでたしめでたしという正史。
今回は、この正史を逆張りでいくつかの説をあげてみようと思います。
秀頼が唱門師(陰陽師)の子供説
秀吉は女遊びが好きでした。
権力も持っておりました。しかし子供が1人も出来ませんでした。
淀殿が側室になって都合よく子供が2人も産まれるのでしょうか?
「無精子症」だった場合、医学的には0に近いはずです。
そういう疑問を調べて行くと、陰陽師(シャーマン)説というのがあります。
受胎日に秀吉と淀殿が一緒にいた鶴松の場合
第一子の鶴松が生まれたときは、秀吉は京都や大阪で仕事をしておりました。
秀吉は、百姓出身で誰が父親なのかもわかっておりません。
子供時代の経験は人格に影響します。
秀吉は、父親になってみたかったのかもしれませんね。
もし大坂にいる秀吉公認で不倫が行われて、失敗続きの姉の子である秀次ではなく、自分の大好きな淀殿の子を自分の子として育て世継ぎにしたかったとしたら?
※秀次は総大将として参戦した小牧・長久手の戦いで徳川家康に惨敗し、織田家重臣時代からの付き合いである池田恒興や森長可を失っております。これを秀吉は烈火のごとく怒り叱責しております。
ここでは、秀吉公認で参籠(さんろう)が行われた可能性を提案したいと思います。
参籠(さんろう)とは、子宝が授かるように神仏に願掛けをして、夜通しおこもりをするということである。
毎夜毎夜、読経三昧にして宗教的な陶酔が頂点に達すると子供が授かります。
さてこの、宗教的陶酔をつくり出すシステムは本当にあったのでしょうか?
当時もありましたし、聚楽第にもあったんではないだろうかと管理人は思います。
宗教的陶酔を作るのは僧侶または陰陽師になります。性交で子供ができない家族に僧侶または陰陽師が子供を作らせるのです。
大河ドラマの真田丸でも取り上げられてましたが、鶴松の誕生は天正17年(1589)5月27日になります。
この鶴松誕生後、聚楽城南鉄門での落書き事件があり100人以上の犠牲者がでます。
誰の子供なんだ?不義による、別の男の子供じゃないのか?
晩年の秀吉は嫉妬深く、自分の行動への批判を許しません。
大虐殺をおこします。
その最中、僧侶や貴族にお金を配るなどをして祝賀ムードを作り上げました。
当時の祝賀についての書物はたくさん残されております。
※いつの世にもある、お金によるバラマキでの噂の揉み消しと、作られたメディア操作というやつでしょうか?

これに比べて、秀頼の場合はどうでしょうか?
受胎日に秀吉と淀殿が一緒にいない秀頼(拾)の場合
しかしせっかく生まれた鶴松が早世したことの悲しみにより、秀吉は朝鮮と戦争をおこしました。
そんな際、再度淀殿が懐妊します。
真田丸や巧妙が辻などの大河ドラマでは、淀殿が懐妊していることを知った秀吉が大喜びをした描写があります。
自分に子供が出来たらそれは嬉しいでしょう。
もしこれが大河ドラマのイメージで作られた物だとしたらどうでしょうか?
秀吉は、筆まめです。
書物を書いては手紙をよく送る武将でした。
しかし、北政所から淀殿懐妊の手紙を貰ったとき、返事に時間をかけています。
秀吉にとってこの懐妊が予想外で、怒りがおさまらず返事を返せなかったとしたらどうでしょうか?
子供を残すのが母親の役目です。
子供が欲しくて仕方がない淀殿が暴走し、前回の鶴松と同じようなおこもりで、僧侶または陰陽師から宗教的陶酔により子供を授かったとしたらどでしょうか?
受胎日に秀吉と淀殿が一緒にいないのに子供ができるのはおかしいのです。淀殿は大阪城にいて肥前の名護屋城にいた秀吉と一緒にいなかった可能性が示唆されております。
秀吉が留守中に起きた承認していないこの淀殿の不祥事。
秀吉は唱門師(陰陽師)を追放または処刑します。
そして、唱門師追放の翌日から淀殿付き女房の処刑が開始されました。
※女房とは、貴族に仕える人のことです。
そして、この中に本来の父親だったかもしれない人が一緒に処刑されていたと考えられます、そしてその本当の父親は闇に葬られました。
(一番有名)秀頼が大野治長(おおのはるなが)の子供説
大野治長とは、茶々(淀殿)を小さいときから世話をしてきた乳母・小袖(おそで、大野定長の妻・大蔵卿局)になります。
大河ドラマ真田丸でも淀殿と一緒にいる描写が多かったです。
現代風に言えば幼馴染になります。
そもそも、豊臣秀吉という男は淀殿にとって憎むべき相手になります。
父親を2人(浅井長政、柴田勝家)殺され、産んでくれた母親(お市)を殺されております。
冒頭に書きましたが、豊臣秀吉は女好き(英雄色を好む)で高貴な存在を愛します。
天下までもう一歩なとこまでいき上司であった織田信長と同じ血脈である淀殿。
淀殿が側室に入れられた時、秀吉は50歳近い年齢でした。
淀殿は戦国一の絶世の美女と言われたお市の子供です、秀吉が愛でたこともあり非常に綺麗な方だったのでしょう。
20歳前後の若さの女性が50歳前後の両親を殺したカタキに抱かれる。
これがどれだけの屈辱だったのでしょうか?
高貴な姫として育った女性が、百姓の出で上記の件以外にも叔父の信長に取って代わったのです、復讐心がわいてもおかしくありません。
その復讐心に小さな頃から育ててもらった大蔵卿局に入れ知恵をされてたらどうでしょうか?
この結果、秀吉からの側室の誘いに乗り側室に入ります。
そして、秀吉にとって世継ぎの男子を2人も産みます。
そもそも、秀吉は150cm前後の身長と言われておりますが、秀頼は190cm前後の大男だったと伝えられております。
大野治長は高身長で色白なイケメンだと後世に伝わっております。
猿と呼ばれた秀吉とは違います。

秀頼は、高身長なだけでなく麗しいイケメンだと言われております、こういうことから大野治長が父親なんじゃないかと当時から言われております。
秀頼が石田三成や片桐且元の子供説
さて、当時から疑われていたのは大野治長だけではありません。
石田三成や片桐且元も父親ではないかと疑われておりましたが、時間的な辻褄が合わなくなります。
秀頼の生誕は、文禄2年8月3日(1593年)です。
子供が産まれるのは昔より十月十日と言われております。
そうすると、文禄元年10月前後には子作りをしなくてはいけなくなる計算です。
文禄元年とは、文禄の役(朝鮮出兵)の年になります。
鶴松の亡くなった悲しみによる無茶な朝鮮攻めでした。
石田三成は1592年(文禄元年)の6月から翌年5月まで朝鮮に出兵しておりました。
片桐且元は1592年(文禄元年)の9月から翌年10月まで朝鮮に出兵しておりました。
かの2人は朝鮮にいる為、淀殿に接触することは不可能になります。
その中で、大野治長はアリバイがないのです。
そもそも、大野治長が当時1592年に何をしているかの史料が不自然なほどないんですよね。
1591年10月には豊臣秀吉と東海地方に鷹狩に出かけているという記録は残っているのですが・・・

このように有名な石田三成や片桐且元説ですが時間的な問題で接触不可能でした。
色々諸説はありますが、秀吉は死ぬまで愛した高貴な淀殿の子供である秀頼を後継者に選びます。
関白を譲っていた豊臣秀次を高野山で切腹に追い込んででも・・・
豊臣家衰退の始まりでした。
関白秀次は、秀頼が秀吉の実子でないことを知っていたのではないだろうか?
肥前名護屋城から帰ってきた秀吉は、大阪城で何度も秀次を呼び出し会っております。
まだ生後3か月の秀頼と生後10か月の秀次の娘との婚約を決めたりして、将来のことについて秀次と話しております。
秀吉のパフォーマンスは続きます。
多数の公家や大名を参加させて吉野花見を行ないました。
それに続き高野山青厳寺で母親の大政所の法要を営んだ後、京に戻り、有力大名の京や伏見の屋敷に、秀吉を室町将軍に準えた式正御成を繰り返しました。
文禄4年(1595年)に事件はおこります。
豊臣秀次は豊臣秀吉に「鹿狩りと称して山へ行き、謀反の計画を立てている、という噂がある」と謀反の疑いをかけられ高野山に追放されます。
秀吉は、秀頼が生まれてから3歳になるまで傍で成長する我が子をみています。
秀頼が3歳になるまで、ハイハイをし、言葉を喋り、歩き始め、そして自分の名前を呼ぶのです。
親だったらこの子を自分の後継者にしたいと思うんじゃないでしょうか?
その時一番邪魔なのは誰でしょうか?
後のトップである、養子の秀次です。
秀吉と秀次は頻繁に会っております、そこでは関白の座を降りて欲しいと言う話をしたのではないでしょうか?
しかし、秀次は関白の座を譲らなかった。
何故ならば、秀次は情報を手に入れられる立場でした。
淀殿が懐妊した時期を考えれば、辻褄が合わないのは明白であり、豊臣一族の血を引いていない誰ともわからない者の子供が豊臣家を継ぐことを承服できるわけがありません。
これは、淀殿による豊臣家の乗っ取りなのは明白。
おいそれと納得できません。
しかし、関白は秀次ですが権力は秀吉にありました。
一度も釈明する機会を与えてもらえないまま、高野山に追放。そして切腹。
享年28歳でした。
そして、三条河原において、豊臣秀次の家族及び女人ら一族も処刑されました。
豊臣秀次の首が据えられた塚の前で、遺児(4男1女)及び側室・侍女ら併せて39名が5時間掛けて処刑されたとのことです。
そしてその首を一箇所に集め葬られたところがかの有名な「畜生塚」になります。
本当は実子ではない秀頼を、淀殿に言われるままに強引に豊臣家の後継者としたことについて、北政所や北政所が幼少時から育ててきた加藤清正、福島正則、北政所の親族の小早川秀秋などは皆、納得できるはずがありません。
秀吉の子供でない秀頼のために、そしてそれを裏で操ってる淀殿のために命を張れるのか?
納得が出来ないまま、その5年後「関が原の戦い」がおこります。
そこでは何故か、加藤清正、福島正則などの豊臣秀吉恩赦の者達は徳川家康側につきます。
そして、何故か北政所も全く動きません。
豊臣秀吉と北政所は一代で天下泰平の世を築いてきました。
大変なときが多く、それを二人で乗り越えてきました。
非常に仲が良い夫婦だったと言います。
それがいつのまにか、側室の子供が後継者になっており、その子供には秀吉の血が入っていない可能性が高いのです。
これを読んでる方、あなたはその子供のために味方をできますでしょうか?
豊臣秀吉の簡単な説明
秀頼の出生には諸説あります、待望の世継ぎができた秀吉でしたが当時は人生50年の時代です。
1598年、秀吉は秀頼がまだ5歳の時に死を悟ります。
徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家に遺言を残します。
「返すがえすも秀頼のこと頼み申し候。五人の衆頼み申し候。委細五人の者に申しわたし候。名残惜しく候。以上」
辞世の句は
「露と落ち 露と消へにし わが身かな 浪速(なにわ)のことは 夢のまた夢」
百姓の身でありながら、織田信長に取り立てられ、墨俣川一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、小田原城征伐と戦果をあげてきました。
晩年は、嫡男鶴松の死、弟秀長の死から少しずつ歯車が狂い始め、千利休の切腹、二度の朝鮮出兵の惨敗、養子の秀次は切腹、キリシタンの迫害や弾圧、そして伏見城の地震による倒壊。

個人的には、家康との戦争をする直前におきた地震による伏見城倒壊が無ければ家康を成敗していたのかもしれないと考えてますが、結局配下に加えて同じ歴史になっていたかもしれませんね。
慶長3年8月18日(1598年)太閤秀吉が死去。
享年62歳でした。
元服して名前を拾から藤吉郎秀頼に改める
文禄5年9月(1596年)秀頼わずか3歳で元服し、名前を藤吉郎秀頼と改名します。
秀頼を天下人として支えていくために、五奉行・五大老制度が整えられます。
秀頼の後見人は、秀頼より申し付けられていた前田利家でした。
信頼も厚く、人に慕われていた人物でした。(賤ヶ岳の戦いで上司である柴田勝家を裏切り、秀吉の先鋒となり滅ぼしたことは何故か悪く言われておりません)
しかし、ここで豊臣家にとって誤算がでます。
秀吉が死んで混乱が続く中で、次の年前田利家が亡くなるのです。
こうなったことで、一番力を持っているのは徳川家康と言うことになります。

徳川家康は、法度で定められた勝手に婚姻を進め親戚を作ってはいけないという制度を無視し、味方をどんどん増やしていくことになります。
関が原の戦い
慶長5年(1600年)、秀頼7歳の時に天下分け目の関が原の戦いがおきます。
美濃の関が原で徳川家康を大将とする東軍と、石田三成を中心とした西軍に分かれます。
石田三成の西軍は10万人、徳川家康の東軍は7万人でした。
徳川家康には息子徳川秀忠(2代徳川将軍)がいるのですが、別働隊として中山道(なかせんどう)を通り現在の長野県の方面から4万人の軍隊で関が原を目指しておりました。
ここを真田昌幸(真田幸村の父親)に足止めされてしまいます。
これを第二次上田合戦といいます。
これにより、徳川別働隊は関が原に到着できませんでした。
実は関が原の戦いのキッカケとなった事件があります。
江戸の北に位置する会津にいる上杉景勝の家臣直江兼続が石田三成と懇意にあったことから徳川家康と対立(直江状)、徳川家康は会津征伐を企てます。
そこに合わせて石田三成が動くのですが、江戸城から11万人(家康+秀忠)の大軍を動かして関が原を目指すわけなので、江戸城の戦力は心元ありません。
ここを上杉軍が攻めれば江戸は落とされてしまう可能性もありました。
ここを伊達政宗と最上義光が上杉軍を足止めします。
伊達政宗には、100万石のお墨付きという触れを出しました。豊臣秀吉に没収された領地を返してあげるから味方しろといっております。
最上義光に至っては、自分の愛娘を秀次の側室に差し出さなければいけないばかりか、差し出してすぐに秀次事件で連座して殺されてしまいました。
豊臣家への恨みは凄まじいでしょう。
話は関が原に戻ります。
先に到着し陣を敷いたのは石田三成、大谷吉継などの西軍でした。
よく勘違いしがちなのですが、西軍大将は石田三成ではありません。
大将は毛利秀元です。
しかし、毛利秀元は大阪城からでてこず、結局戦闘を一度もせず最終的に大阪城を明け渡します。
そして騙し討ちに合い、自分の領土を家康に没収される末路を辿ります。
この戦いで秀頼に出陣してもらいたかった石田三成ですが、淀殿に阻まれます。
石田三成的には、恩ある太閤秀吉に報いるため、秀頼のための戦だったはずですが秀頼は出陣できませんでした。
一説によれば、淀殿と石田三成の仲はそんなによくなかった様子です。
同じ近江出身なんですが、地域が違うといいますしね。
そして、秀吉の正室ねね様(北政所)も静観を決め込みます。
ちなみに石田三成の子供をその時養子に迎えております。
北政所が動いていたら歴史は違ったのでしょう。
秀吉血筋の浅野長政、福島正則、加藤清正、木下勝俊が徳川側につき、北政所に育てられた小早川秀秋ですら西軍を裏切ったのです。
西軍は総崩れになり、1日で戦争は終わります。
九州では黒田官兵衛(黒田孝高)が暗躍しておりましたが、1日で終わってしまった為野望を捨てることになりました。
関が原の戦い後、徳川家が武家のトップとして君臨する
関が原の戦いが終わり、徳川家康は戦後処理を行います。
敵対した西軍の取り潰し、所領の没収。
そして、豊臣家の持ってる所領を召し上げました。
徹底的に豊臣家の財政を圧迫しにかかります。
慶長8年(1603年)徳川家康が征夷大将軍になり、名実共に武家のトップになります。
そして同年、徳川秀忠の娘の千姫が、秀頼に嫁ぎます。
徳川家康は、次の将軍である秀忠の娘を秀頼に嫁がせることで徳川・豊臣の融和路線で話を進めて行く予定だったのでしょう。
豊臣家滅亡のキッカケとなった二条城会見
豊臣家は武家のトップではありませんが、公家のトップに君臨しておりました。
大勢の公家衆が年始の挨拶に訪れます。
それもそのはず、豊臣家は5摂家の1つだったからです。
※5摂家は、摂政・関白になれる家柄のことです。
大名も秀頼の元に挨拶に訪れ、豊臣家は家臣達に位を授けるなどをして存在感を示しました。
ここで徳川幕府を開いた徳川家康はこう思います。
この豊臣家の財力は邪魔であると、所領を減らしたにも関わらず天下をおさめた秀吉の遺産が余りあるのです、これを何とかしようと思います。
秀頼は、日本各地の寺社の修繕を積極的に行いました。
徳川家は、方広寺の修繕などを豊臣家にやらせるなど、財力をとにかく使わせることに終始しました。
慶長10年(1605年)秀頼は12歳になりました。
朝廷から、秀吉存命のときと同じような扱いを受けていた秀頼は右大臣に任命されました。
家康は、力を取り戻している豊臣家を見て面白くありません。
家康は秀頼に上洛して、会いに来るように求めます。
つまり、どちらが上なのかを世間にハッキリさせようとしたのです。
しかし、淀殿がこれを阻みます。
慶長16年(1611年)秀頼が18歳の時に、家康は70歳でした。
人生50年の時代です、長生きです。
これは家康が質素倹約を心がけ、健康にかなり気を使い、漢方を勉強し精通していた賜物でしょう。
秀頼は、反対する淀殿を押しのけ「千姫の祖父に会いに行く」という名目で二条城で家康と会いました。

ここで淀殿の言うとおり、知らぬ存ぜぬで家康と会わずに数年待てれば家康が年齢で亡くなるもしくは病に伏して豊臣征伐はおこらないのかもしれませんね(完全なifストーリーになりますが、そうしたら戦国の世はどうなっていたのでしょうか?)
そこには成長した(身長190cm)礼節を弁える、思慮深そうな青年がおりました。
家康はもういつ死んでもおかしくない年齢です。
この秀頼を見た家康は、考えを改めます。
この会見のあと、秀吉恩赦だった大名だった加藤清正、浅野長政などが次々と亡くなっていきます(暗殺説あり)
方広寺鐘問題勃発。責任者片桐且元。
慶長19年(1614年)、兼ねてより修繕していた方広寺大仏殿が完成しました。
しかしここで問題がおきます。
片桐且元(かたぎりかつもと)は七本槍にも数えられる秀吉恩赦の家臣です。
関が原でも西軍についた人物で、徳川家と豊臣家の交渉役として活躍しました。
片桐且元は方広寺の責任者でした。
大仏殿が完成し、その開眼供養(かいげんくよう)の日が迫ったとき、家康は突然その鐘銘に「国家安康」「君臣豊楽」の文字のあることをとがめて供養の中止を命じた。
これは、家康の名前を切り離していることで大阪側が呪いをかけているのではないかと疑ったのです。
片桐且元は徳川側に弁明しました。
その結果。
秀頼を江戸と駿府に参勤させることや、淀殿を江戸に人質としておくること、秀頼を大坂から出し大和または伊勢に行かせるなどの条件を突きつけられました。
淀殿など大坂側はこの条件を拒否。
怒った大坂側は、片桐且元を最終的に改易まで持って行き、家を取り壊します。
これを聞いた徳川家康は、使者を追放したのは何事かと激怒、これをキッカケに豊臣秀頼討伐の大坂の陣に繋がっていきます。
大坂冬の陣
戦争が始まります。
秀頼は、秀吉恩赦の武将に味方をするように激を飛ばしますが、味方をしてくれる武将がいません。
結局、大名は誰も味方になってくれませんでした、これは大坂側にとって大誤算だったのではないでしょうか?
兵士がいなければ戦になりませんので、秀吉の遺産であるお金を使い浪人を雇い、武器弾薬、兵糧を買い込みました。
その兵10万人とも言われております。
それだけの兵が戦が無くなった世の中で仕事を求めていたのです。
幕府軍は正規兵です。
統率の取れた戦いぶりで大坂側は次第に不利になっていきますが、真田幸村率いる真田丸で迎撃に成功、互角の戦いまで持ち込みました。
しかし、堅牢な大坂城を落とすために家康はヨーロッパから、カルバリン砲を調達しておりました。
このカルバリン砲が大坂城を直撃します。
秀頼は徹底抗戦を考えておりましたが、震え上がった淀殿による懇願により和平交渉をすることになりました。
ちなみに、片桐且元は改易されたあと徳川家康側につき、このカルバリン砲を扱う砲撃部隊に配置されます。
皮肉なものですね。
大坂夏の陣
昔の教科書では、徳川家康側は外堀を埋め、豊臣側は内堀をゆっくりと埋め立て時間をかけようとしていたが、徳川側が強引な解釈で家を壊した瓦礫や家財道具までもを使って内堀も埋めてしまい丸裸な城になってしまったと教えられておりました。
しかし、あれから時がたち現在は豊臣側も内堀まで埋めてしまうことを了承済みだったという説が有力視されているようです。
徳川側は、秀頼の大坂城退去。浪人の解散を求められますが浪人達はこれを拒否、徹底抗戦を主張します。
徳川側と豊臣側は大野治長(秀頼の父親と疑問視されている方)によって交渉を行っておりましたが、大野治長が浪人に襲われます。
そして浪人の解散をしてしまうと戦力が全くなくなってしまう秀頼は浪人の解散を拒否。交渉は決裂します。
再度、徳川側は戦仕度を始めます、堀の掘り返しは間に合わず裸城で決戦に挑むことになりました。
20万の徳川軍に8万人の豊臣軍。
しかしここに大名はおらず、浪人しかいなかった為戦略はなくバラバラに各個撃破されていきます。
そして内通者がおり、作戦は筒抜け、真田幸村(真田信繁)、毛利勝永、大野治房が活躍しますが一時的なものでした。
秀頼は戦場に出陣して指揮を高めようとしますが、大野治長の弟治純が徳川側に内通し、真田幸村と長宗我部盛親が裏切ったという偽の情報を秀頼に伝え、動くに動けなくなります。
大坂城に徳川軍が雪崩れ込み、負けが濃厚になると浪人達が火を放ち金品の略奪を行い始めます。(ルイス・フロイス談)
豊臣に忠誠を誓ったわけではなく、金品で雇われた浪人なので当然といえば当然でしょう。
秀頼は千姫を捕虜にしようと言う淀殿を抑え、千姫を徳川側に返します。
そして、蔵に逃げ込んだ秀頼と淀殿でしたが徳川軍に包囲され自刃します。
享年23歳。
秀頼は側室との間に国松と言う子供がおりましたが捕らえられ処刑されます。
享年8歳。
まとめ
秀吉は、清洲会議で三法師と呼ばれた織田信忠の息子の後見人になり織田の天下を乗っとりました。
その秀吉が晩年にできた秀頼を徳川家康にいいようにされ天下を乗っ取られる。
皮肉な結末でした。
徳川家康は、源頼朝を尊敬していたそうですね。
平清盛が源頼朝を殺さずに生かしてしまったことで源平合戦がおき、平家は源氏に滅亡へと追いやられます。
8歳とは言え、秀頼の子供。
可愛そうですが国松も若くして殺されてしまいました。
豊臣秀頼のお墓を見に行こうから始まって、23歳の歴史を私の解釈も含めながら語ってみました。
ここまで読んで下さった方、ありがとうございました。
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